窯場の展示室で急須を買うのに、把手を下に急須を逆立ちさせる人が居ました。バランスを確かめるのだそうです。
テレビでそう放送していたらしいのです。
秤を持って重さを量るという人も現実にいたという話をききました。
|
|
使いよいか否かは、実は物理的なバランスや重さなどでは決まらない。
機能の優れたものは美しいという理論はとっくの昔に破綻していて、それは真理の一側面を示すに過ぎません。
ものを選ぶのには、他人の判断基準を借りずに、自分自身の五感を働かせたい。そう思います。
|
|
使われるべき“もの”を作る人は、自分が今作っている“このもの”を一体誰のために作っているのでしょうか。
注文してくれた人などいろいろありますが、意識の境界の向こう側、漠然とした部分までを考えれば、誰でも自分自身のために作っている、と言えるのではないでしょうか?。
そのつもりはなくても、結局は自分を喜ばすために作っているのです。
さまざまに工夫をこらしている、自分のありさまを顧みれば、納得することでしょう。
|
|
作者とお客さまの間に、何か共通項があるから、その器は選ばれる・・そういうことだと思いますが、自分を喜ばす純度が高ければ、共通項もより鮮明になるでしょう。
うつわを選び、使う、ということはそういう理由によるのではないでしょうか?
こういったことが、機能の大きな部分を占める、と相玄窯は考えます。
無人称的な仕事は誰にでも合うのでしょうが、それはまた誰にも本当の意味では、合わないと言うことにもなってしまいます。
そのような時は、物理的機能は意味を失ってしまうのです。
常識的な機能を充たしていれば、物理的機能については、それ以上を考える必要はないでしょう。
逆立ちなどしなくてもよいから、自分が喜べるうつわを作ることが大切だと思います。
|
|
ここからは相玄窯のポリシーに過ぎませんから、聞き流して頂いて結構ですが、陶芸を器の側面からいえば、器は暮らしに奉仕するためのもので、自己表現の手段などではない・・・暮らしに潤いをもたらすことが出来れば、作り手としては幸せだ、というのが相玄窯の考えかたです。
このWeb陶芸教室の文全体の背後にある考えかたでもあります。
陶芸の“作家”を目指す人にはまた、全く異なる方法論があると思います。そしてそれは人それぞれに、異なるアプローチがあるでしょう。
|